3次元意識で暮らしている人たちは、無意識の内に自分以外の「誰か」や「何か」を「自分の上」に置いて生きています。

人によって対象が変わりますが、ある人は親に逆らえなかったり、妻に頭が上がらなかったり、雇い主や上司を怖れていたり、自分が「何をする・しない」をお金に決めさせていたり、はたまた「世間の目」を怖れてやりたいことをやらず、やりたくないことを我慢してやっていたりする。
そしてそのことに関し恐ろしく「無自覚」でいます。
そういう状態にあるとき「自分の人生を生きている」とはとても言えず、何等かの枠組みの中で「生かされている」状態、つまり、自分自身の殺生権を自分以外の誰かや何かが握っている状態と言えます。
「自分の人生を生きる」とは、「自分が何をする・しない」はすべて「自分が決めて」、その通りに実行し、その結果をすべて自分が背負って生きる生き方のことを言います。 |
そのとき、自分と周囲との関係は「上下」の力関係ではなく、対等で水平なものとなります。

自分以外の他者と健全な関係を持つとは、相手に対してNo.と言える、「ありのままの自分」として振舞えることを指すのです。
相手のご機嫌とりをしたり顔色を伺ったりせず、常に「自分の本音」で振舞えるということ。
そして相手もそうあることを受け入れられること。
2022年の一時期、私は保護猫活動団体でしばらく働いていました。
その時に、「会長」という人が私にこんなことを言ってきたんです。
「百瀬さん、この現場は過酷だから、某量販店へ行ってそれ用に安い服を買ってきた方がいいかもしれない。そうでないと服が傷んでしまうから」
それを聞いた私は内心びっくり仰天しました。
え、私ってそんなに子供に見えるのかしら?まがいなりにも48歳の立派な大人だし、「自分に何が必要か」くらい、自分で考えて決めることができるんだけどな。
そして、その人にこう言ったんです。
「この現場が(私的に)続くかどうかわからないんで、その為だけに新しい服とか買いたくないんです。今ある服で十分です。もし辞めちゃったら、使い道のない服が残るっていうのは、私は嫌なんで」
すると相手はすこし驚いたような顔をして、噴出して笑い、「あ、そうだね」とだけ言いました。
私にとってはごくごく当たり前で普通のやりとりでしたが、恐らく札幌の人にとっては「あり得ない」やりとりだったんでしょう。
「会長」のアドバイスに対してそういうことを言う人っていうのは、かつていなかったのかもしれないな、と、後になって思い至りました。
後で知人にこのやりとりがあったことを話したとき、「え、そんなこと言って、やる気がないって思われるんじゃない?」と言われたからです。
はー、この人たちはそんなことを怖れているんだ!と、またしてもカルチャーショックを受けた出来事でした。
自分軸で生きていない、他人軸で生きることが当たり前になってしまっている人たちからしたら、私のように自分の考えややりたい事がハッキリと分かっていて、それに従って生きている人は「怖い」と映るんでしょう。
え、そんなことして、大丈夫?って感じなんだと思います。
でもね、それって「動物園の檻の中で餌をもらいながら一生を過ごす」か、それとも「大自然の中で自分で狩をしながら自由に生きるか」の違いなんです。
私はもうとうの昔に「大自然の中で自分で狩をしながら自由に生きる」という選択をして肚を括って生きているので、他者を怖れることがない。
誰に何を言われても、それに迎合することなく、常に「自分にとって何がベストか」を基準に振舞えるということなんです。
すべての人がそうできるわけではないです。
自分で生きると100%決めている人だけが持てる強さです。
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