今日は水瓶座の新月です。
昨日より私は心理的には不調で、さまざまな浄化現象を通り抜けていました。
本日は前々から予定していた「映画」を観に行ったのです。ある意味それが浄化現象のダメ押しとなりました。
本当にザワザワします。
その映画とは、大島渚監督の伝説の大作「戦場のメリークリスマス-復刻版-」。
外国人の友人は皆観たことがあるのに私は観たことがなかったので、近所の映画館まで観に行ってきました。
結論:
トラウマになりました www
吐きそう ( ノД`)
もしかしてそうなるかなーと予測して、映画のところどころでは目を瞑って耳をふさいでやり過ごしていましたが、それでも内容があまりにもヤバすぎて、終わった時には最大級の疲労感に襲われていました。
- 第二次世界大戦において歪められ貶された性(BL)
- デイビッド・ボウイ演じる美しきイギリス人少佐は「自由と反骨の精神(パンク)」だけれども「せむし」の弟に対する罪悪感が原因で死に至る
- 「恥を忍んで生きながらえる」くらいなら「腹キリする」という日本人のエゴ
- 相手にわざと恥辱を与え「切腹しないのか?」と人間の尊厳を踏みにじる日本兵のエゴ
- 立場が変わった日本人軍曹(原)が命乞いするもローレンス中佐から冷笑で返される皮肉
もー2時間テンコ盛り。
でも誤解して欲しくないのは、この映画はやっぱり観ておいた方が良かったということです。
日本人の集合意識に潜む闇
この映画は「戦争の闇を容赦なく炙り出した大作」と言われることが多いのですが、実際に観てみた感想は、「戦争の闇」ではなく「日本人の民族としての集合意識に潜む闇」を炙り出した逸作でした。
戦争は単なる「きっかけ」にすぎず、普段から抑圧的な生き方をせざるを得ない日本人たちの潜在意識や集合意識に押さえつけられているカルマ的な問題要素が、戦場という「非現実」的な場所において解き放たれているだけ。
それは、普段ストレスを抑圧している人たちがお酒やカラオケで「素」を出して発散するのと変わらない現象です。
この映画は、普段の生活では出てこない「日本人の裏の顔」をヨーロッパ捕虜たちの視点を通して見事に描き出していました。
大島渚監督ってすごい。
- 彼ら(日本人)は個人じゃ何もできない、集団になって狂っていくんだ
- あなたたち(日本人)は人間の心を失ったのですか?
- (日本人は)過去に生きている人々なんだよ
- 正しい者など誰もいないのに、彼ら(日本人)は「自分たちが正しい」と教え込まれているだけ
- 私(ローレンス中佐)は誰一人日本人を個人的に恨みたくない、彼らは犠牲者なんだ
映画で出てくるヨーロッパ捕虜たちのセリフです。
それでも「彼ら(日本人)も人間には違いない」と、愛を与えようとするヨーロッパ兵たち。
「正しくある」ことの狂気に駆られた日本人将校の心に、ほんのわずかでも「愛」は届いたのだろうか?
日本人と日本社会が抱える闇と問題は、1942年当時から今まで、何も変わっていません。
この映画で描かれているすべてが、今では政府や学校や各企業内で行われているだけ。
- 「挨拶は社会人としての基本」
- 〇〇はマナー
- ▽▽しないと社会に適応できない
そういう教育ややり方が、どれほど「人の道に外れたこと」であるか、自覚がないだけなんです。
「個人」よりも「集団」の利益が優先される日本という場所では、人々は処世のために「個」を殺し、自分で考えることを放棄して、「全体」に合わせて生き延びようとします。
それが「日本という場所」では「正しいこと」だから。
Aの団体では「〇〇するのは止めましょう」と習い、Bの団体では「そういうときは〇〇しましょう」と正反対のことを教えられても、それを疑問に思う人は少ない。
ソレはソレ、これはこれでしょ?
それが「日本人的思考回路」です。
自分で考える力がないので、常に自分以外の誰かや何かに「どうするべきか」を委ねて生きている。
集団の中でしか生きられないとき、「自分で考える力」などは邪魔なものでしかないからです。
だから「するべきこと」も集団に合わせて変わる。徹底的な日和見主義。
でもそれは外の世界から観たらすべからく「異様」で「狂気の沙汰」でしかないこと。
映画の最後で、処刑を翌朝に控えた北野武扮する原のセリフが象徴的です。
「でも、どうしても理解できません。私はただ、他の兵士たちとまったく同じことをしていただけなのに。(なぜ処刑されなければならないんでしょう)」
他と同じことをしていればソレが「正解」だったはず。
たとえそれが、人の道に外れたことであっても、日本という国の中では、ソレが「正解」であり「正義」だったハズ。
それなのに、なぜ?
私が死ななければならないですか?
メリークリスマス!
メリークリスマス!
曖昧な微笑みを浮かべるしかないローレンス中佐。
日本という場所に居ても、社会、世間、組織の中に組み込まれず、距離をとりながら生きてれば自由です。
染まらずに済む。
でもその中に居たら、比較対象するものがなかったら、自分が属している場所がどれほど病んでいるのかは自分ではわからないものです。
「挨拶は社会人としての基本」なんて言われて、「それが正しい」と諾々と受け入れるのではなく、「本当にそうなのかな?」と、自分の感覚に確認できる力を持つこと。
関連記事:
「ソレが正しいから」ではなくて、「自分はどうしたいか」で自分の振る舞いを決めること。それを貫く強さを持つこと。
「正しくあること」ではなく、「自分にとって心地よいこと」を選ぶこと。
いつも発信している内容ですが、その大切さを改めて思い起こしました。
デヴィッド・ボウイが他界して数年、今このタイミングでこの映画が復刻したというのも、偶然とは思えません。
私にとっては今が観るタイミングだったと思います。
それにしても坂本さんのアイラインが怖かったなー、、、
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