20数年に渡る海外生活を終えて日本へ戻り、驚いたことはいくつもあります。
少しずつ、「私が見る日本」について書いています。
今回は、「日本の集団主義」というテーマと、日本全体に淀んでいる停滞感・閉塞感を絡めて書きたいと思います。
日本文化は集団主義

「集団主義」とは、一人ひとりの利害・利益よりも集団の利益が優先される文化、個人の都合を押し殺して「集団」に合わせることを要求される文化のことです。
集団主義においては、「みんな」が参加するアクティビティであれば自分は関心がなくても参加することを要求されたり、一人だけ他とは別行動することは「自分勝手」とみなされたりします。他と「足並みを揃える」ことが暗に要求されるのが集団主義の特徴です。
私は、日本文化は集団主義に間違いないと考えています。
日本人はもともと「家族」を一単位として小部落(村)を形成しながら生きてきた歴史があり、その中で培われた独特の「村文化」を持っています。「出る杭は打たれる」とか「村八分」とかいう言葉も、「村文化」の名残です。日系企業や学校で行われる「朝礼」や「自己紹介」も、集団主義に根差した日本特有の文化です。
日本のみならず、世界でも発展途上にある国々では未だに家族単位の結びつきが強かったり、村文化が強く残っていたりします。人類の発達段階上、発達が進めば進むほど村文化に根差す集団主義から脱し、個人主義へとシフトしていきます。地球上でもっとも進化度が高い北欧は、個人主義で知られています。
「村」の中では他と同じ振る舞いをすることが求められ、そうできない人は「調和」を乱す異分子とみなされ迫害されてきた歴史があります。閉鎖的な村落においては、全体に同調することが調和を保つ方法だったからです。
それと同様のことが、日本社会の至るところで今でも行われています。家庭内、学校内、企業内、組織内で、古い時代の村社会の掟や文化が未だに日本人を支配しているのです。
集団主義の負の側面
かつての日本人の生き方を守ってきた集団主義ですが、マイナスの側面が沢山あります。
例えば、村の長が汚職や罪に手を染めているとき、見て見ぬフリをしてやり過ごすことが処世術であったケースが多くあります。健全な父性が未熟な日本の社会において「本当のこと」を追求して真実を白日の下へ晒そうとする真摯な人は、危険分子として抹殺されてきたケースが相当数あるのです。みんなが見て見ぬフリをして口をつぐんでいるときには、それと同じようにすることを要求されるのが、村社会に根差した集団主義です。
このようなことが長く続けば、社会全体が病んでいくのは自明の理です。
真実を明らかにして組織を浄化することは、長い目で見て人々の利益になることです。ですが、発達段階が低いと長期的な視点や勇気を持つことができず、目先の保身にしか意識が向きません。そのため、発達段階が低い者にとっては「長いものに巻かれる」ことが「正しい処し方」となり、そうせずに我が道を行く人を批判する傾向が高まります。
その根底には「無力感」があります。
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発達段階が違う者同士が暮らす社会
社会の中には様々な発達段階の人たちが混然一体として暮らしており、価値観ややり方が衝突することは避けられません。そうしたことは、皆が健全に暮らしていけるためにはある意味必要なことなのです。
しかし「波風をたてない」「穏便に済ませる」「角を立てない」といった事なかれ主義が重んじられる日本社会においては、健全な喧嘩すらもできず、発達段階が高い方が低い方へ合わせることを強要される風潮がずっと続いてきました。
これはどういうことかと言うと、小学3年生の教室に大学生を入れて、「みんな一緒に仲良く授業を受けましょう」と強要するようなものです。小学生の教室に大学生を入れれば、大学生は30分もすれば飽きてきて自分のしたいようにしたいと思い始めるでしょう。それが普通なのです。小学校の授業は大学生には退屈ですから、もっと歯ごたえのある成長課題にチャレンジしたいと思うのは、人間に備わった自然な欲求です。
誤った認識
ところが、日本の社会においては、そのようなことは我慢して相手に合わせられることが大人であるとか協調性であると考えられています。
これは大きな誤解です。
自分と発達段階が違う者や集団に合わせられるのが大人なのではなく、その場から立ち去ることができるのが本当の意味での大人なのです。自分と合わない組織から離れられない、我慢してでも合わせてしまうのであれば、自分の中に依存が残っているということです。
例えば、汚職がまかり通っている組織の中でそういう体質が合わない人は、我慢したり見て見ぬフリをして組織に居続けるのではなく、組織の体質を改革する方向で行動を起こすか、それが功を奏さなければ組織から去ることができるものです。それが本当の意味で成熟した人なのです。
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