人はみな違う
集団主義とは、個人同士に発達段階の違いがあることを認めようとせず、すべての人に一様に「同じもの」を要求することです。合わせることを要求することです。多くの方はこれをもって「平等」や「協調」と思われるかもしれませんが、これはそのようなものではありません。
本当の意味での平等や協調とは、一人ひとりの発達段階に合わせたことを求めるだけの分別を持ちつつ、同等の権利を認め、合う部分だけで繋がれることです。すべての人を同列に扱うことであったり同じことを要求することではありません。
父性の欠如

衝突したくない、喧嘩しないのが良いこと、なるべく穏便に・・・これらはすべて父性の欠如を示すものです。
健全な父性がある社会では、衝突を恐れずに相手と対話を持つことができます。20代の頃に一年という短い間だけ暮らしたオランダでは、すれ違いや誤解が生じたときに、「対話することで解決する」という成熟した人間関係を持っているオランダ人たちに感銘を受けたものです。
当時の私は、誰かとすれ違いや誤解が生じたときにきちんと向き合うことをせず、何も言わずに我慢してやり過ごすのが関の山でした。そして抑圧した不満や怒りを喫煙や飲酒で紛らわせていたのです。今から思えばとても未熟で不健全なやり方でした。
誰かと本当の意味で人間関係を築きたいと思うのであれば、きちんと向き合えるだけの強さと勇気を持つことは必要です。それがつまり父性なのです。
地球上で言えば、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーの北欧、そしてカナダあたりがかなり高い精神性を示していると感じます。一人ひとりの違いを認め尊重できるだけの女性的な成熟度もあり、境界線を明確に引いて尊重できるだけの父性(男性性)もある。
集団主義に根差す無力感
今の日本が抱える閉塞感と無力感は、集団主義に根差すところが大きいと私は考えます。
集団主義の決定的な欠点は、人間の「考える力」を壊滅的なまでに奪ってしまうところです。何しろ、他と合わせてさえいればいいわけですから、自分の意志や軸で人生を選ぶ必要がないのです。そんな文化では、「考える力」はとうてい養われません。
自分の理性と悟性を信頼して自分なりの考えを構築し、それに従って生きることは、自分に対する信頼感と人生に対する有力感を得るためには必要不可欠です。
周りに同調し、流され、思考停止に陥った多くの人が「他から言われるままに」生きています。それでは、自分は自分の人生を生きているという充実感や有力感は感じようがありません。
私は子供の頃から生粋の個人主義者です。日本社会の集団主義はどうも子供っぽく思えてしまって付き合えない。最近では付き合う必要もないとわかっているので合わようとしません。
こういう私の生き方やあり方は、集団主義を重んじる人々からはまるで理解されませんが、発達段階が違う者同士は所詮理解し合えないものなのです。どこまで行っても平行線です。
私は日本はいずれかの時点で集団主義を卒業して個人主義へと移行していく必要があると考えています。それが進化の方向だからです。今そのシフトが始まりつつある兆しらしきものも見えないわけではありません。ただ、いつも書いていることではありますが、一人ひとりの意識が変わらないうちは、社会は変わりません。
より多くの人が自分と向き合うことを通して、自律した大人へと成長し、日本が全体よりも個人を尊重できる社会へと成長していけることを願っています。
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