今日、私は少しショッキングな出来事に遭遇しました。
信号待ちをしているとき、私の横から出てきた鳩が一羽、道路を横切ろうとヨチヨチ歩いていました。
私は、「危ないなぁ、車に轢かれちゃうよ、、、」と思いながら見ていたのでした。
でも、車が来れば鳩は逃げるだろうと思っていたんです。
車が来た時、確かに鳩は逃げました。
でも、ちょっとタイミングが遅れ、車のフロントガラスに身体をガツンとぶつけてしまった。
バッと羽根が散ったのが見えました。
その瞬間を目撃してしまった私は鳩が気になって、成り行きを見守っていました。
鳩が車にはねられた瞬間、どこからともなくもう一羽鳩が飛来し、はねられた鳩と共に数メートル飛んだ後、二羽一緒に近くの公園の中に着地しました。
数分様子を見ていましたが、少なくとも鳩は流血したりはしていなかった。
でも、、、
その後どうなったのかは、わかりません。
この時、私の中に「もしもあのとき私が鳩に警告(?)を発していたら、、、果たして鳩はケガをせずに済んだだろうか?」という思考がありました。
これがエゴです。
エゴは色んな「たら、れば」を考える。
「自分のせいで、、、」「自分があのときもっとこうしていれば、歴史は変わったかも、、、」
そういう世界に、エゴは生きている。
でも真実の世の中は「その時その時、すべての人や物がベストを尽くした状態で」常に展開している。
「今ここ」の現実に、「たら、れば」はないです。
そういうことを考えるのはエゴだけ。
今の世の中、いろんな出来事が起こります。
今地球はかつてないほどの大変革を通過中で、何が起こってももはや驚かない境地な方が多いかなと思います。
日本でも、若い世代を中心に多様化や個の表現を進める動きが活発にあります。
それについて私はいささか違和感を覚えることがあるのです。
それは、若い世代の人たちの承認欲求が強すぎるということ。
そして彼らは極度に傷つきやすい。
ここで言う承認欲求とは、注目されたいとか構ってもらいたいという欲求のことではありません。
「社会から受け入れられたい」「社会から認められたい」と思う気持ちのことです。
自分の個性を表現したいと思う傍ら、その自分を認めて欲しい、受け入れて欲しいという期待と欲求を「社会」に求めてしまう。
それがうまくいかなくて、自分の気持ちの折り合いをつけられず、自分を追い込んで苦しんでしまう。
そういう風に感じることが多いです。
若い世代の人たちは自我が極度に脆い。
「自我」とは、「これが自分である」という確固とした「自意識」のことです。
通常人間は、思春期を通して親から心理的・精神的・意識上で分離して、「自分は親とは違う人格を持った別の人間である」という意識を通し、「コレが自分」という自我を確立していきます。
しかし、特に日本においてはその過程がうまくいかない人がほとんど。
なぜなら、儒教の影響が強い日本では、未だに「子供は親の言うことを聞くもの」といった支配的な思想や価値観が根強く残っているからです。
そうして、「親に自分を認めてもらいたい」という欲求不満を抱えたまま身体だけ大人になってしまう人が多い。
それが「世間体を気にする」とか「社会から受け入れてもらいたい」と欲求として出てくるわけです。
つまり、親への気持ちや期待を「社会」や「世間」といったものに投影している。
でもね。
人生50年生きてきて今私が思うのは、「社会」や「世間」なんて、自分の在り方にはまったく関係ないということ。
それらは取るに足らないものだということ。
私が26歳の時に読んだ本の中にこんな一節がありました。
「およそ社会というものは、正当な評価などはくださないものだ」
ぼんやりとしか覚えていませんが、ヨーロッパの哲学書に書いてあった一節です。
当時の私はこれを読んで目から鱗が落ちたものです。
その本が書かれたのは1000年近くも前のこと。
今でも変わらない本質は、普遍的な真理なんです。
「およそ社会というものは、正当な評価などはくださないもの」
このことが、その後の人生で私の支えとなりました。
「社会や世間なんて気にするに値しない。取るに足らないもの。私は私で生きたいように生きる」
それからはそういう気構えで今まで生きてきたわけです。
お陰で私は自分を損なうことから逃れられた部分が大きい。
そして他人からどう思われようとも、自尊心を保ちながら生きてくることができました。
若い世代の人にもっとわかって欲しいと思う事は、「社会から認められたい」「社会に受け入れてもらいたい」という承認欲求を丸ごと手放しさえしてしまえば、人は楽に生きられるようになるということ。
自分が自分であることを、他の人に理解してもらったり、納得してもらう必要などもともとありません。
自分の生き方や在り方を誰かに釈明する必要はないし、また理解してもらう必要もないんです。
そういうことを求めるのは、パートナーや家族や親しい友人だけで十分。
世間は関係ない。
人は人。
自分は自分。
他人から理解してもらいたい、わかってもらいたい、認めてもらいたい、受け入れてもらいたいという気持ちが強いうちは、まだインナーチャイルドが癒えていないんです。
「生きている」以上時として傷つくことは避けられないし、また、他者を傷つけずには済まされません。
この歴然たる事実を事実として受け止め、受け入れ、自然体で、等身大の自分で生きていく肚を括る必要があるわけです。
生きるということは、ときとして傷つくことを受け入れること。
痛みを感じることを自分に許すこと。
他者を傷つけることがあることを、認め許すこと。
自分が傷つくことなく、誰も傷つけずに生きるなどは、所詮は地に足のつかない空虚な理想だと気づかなくてはなりません。
意図的に自分や他者を傷つけていいという意味ではなく、生きている以上、痛みを感じることは避けられないという意味。
だとしたら、それを受け入れて生きていくより他はないわけで。
それができる人が、本当の意味で強い人です。
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