私がものを見る目は、「世間並」とか「人並」という尺度ではありません。
それよりも、「どれくらい自分の欲求を満たせているか」そして「どれくらい幸せを実感しているか」。
日本の人たちは本当に真面目で、世間から後ろ指を指されないように、「世間的に正しい」生き方ができているかどうか、「人並」の生活ができているかどうかを非常に気にします。
でも、それであなたは本当に幸せですか?
目次
時代ごとに違う「雛型」
「こう生きるべき」という雛型は、時代によって変わってきました。
明治や大正の頃は、まだ働いている女性は少なかったです。
貧困などやむにやまれぬ事情でお金を稼ぐ女性はいても、それは今の時代のような女性の自己実現ではなかったわけです。
当時は男性が大黒柱として収入をもたらし、女性は家を守るという「雛型」が一般的でした。
女性は男性には逆らえないものとされていた。
昭和の戦後に至り、私の両親の世代でようやく「女性が働くことを通して自己実現」をし始めた。
それでも、彼らの世代の「幸せの雛型」と言えば、
- マイホームを持つこと
- 子供2~3人を持つこと
- 年金を受給すること
という条件があり、ほぼすべての人がその「型」通りに生きていたと言っても過言ではありません。
それがいわゆる「世間並」「人並」ということだったわけです。
そして、それができない人がいるとなれば、何か問題があるとみなされた。
そんな非人間的なことが、普通にまかり通っていたわけです。
「雛型の人生」=「幸せ」という洗脳
マーケティング理論を少しご存じの方ならお分かりかと思いますが、「雛型」は資本主義の刷り込みに過ぎません。
戦後、「マイホームを持つことが幸せ」というプロパガンダをぶち上げ、30年ローンを組んで人々に「家」を買わせた人たちがいました。
それまでの日本は、一生賃貸住宅に暮らすスタイルが一般的だったのに。
国民にマイホームを買わせ、30年に渡る安定的な資金調達と労働力の確保に成功した人たちがいたんです。
そして、
- 固定資産税
- 住民税
- 相続税
- 譲渡税
と何重にも課税して、「それが払えることが幸せですよ」と洗脳する。
しかしそのお陰で GDP は安定して上がっていった。
こういう資本主義経済のカラクリがあるわけです。
それは日本の人たちの幸せとは何ら関係ない、単なる経済統計上の戦略に過ぎません。
私が子供時代を過ごした町は典型的な新興住宅地で、山肌を切り開いて土地開発が行われていました。
今では山の中に打ち捨てられたかつての新興住宅地がゴーストタウンのように点在している有様です。
1960年代にはそうした資本主義の流れに No. を突き付ける若者たちが闘争を繰り広げました。
でも、結果的には鎮圧された。
そして洗脳された人々は、「マイホームを持つことこそが幸せ」と信じ、それに従って生きたわけです。
失われた30年の幕開けです。
本質からかけ離れた幻想
私の知るある女性は、若い頃に一度目の結婚をして後に離婚したそうです。
「絵に描いたような幸せな家族だった」
と彼女は言います。
でも深く話を聞いてみれば、旦那のDVとモラハラがひどい。
暴言・暴力は当たり前。
薬物依存の問題まである。
それでもなお彼女が「絵に描いたような幸せな家族」という理由は、表向きの体裁はすべて整っていたからです。
つまり、旦那にそれなりの職業があり、収入があり、まがいなりにも中古マンションをローンで買い、娘が生まれた。
ね。
幸せでしょう?
自分が本当に幸せかどうか、もはや自分ではわからない。
でもスペックだけ見れば「幸せ」な「ハズ」。
だって、「雛型通り」でしょう?
そこまで感覚がマヒしてしまっているんです。
幸せの定義
幸せとは、自分がやりたいことをして、やりたくないことはやらずに済ませられること。
自分の価値観に沿った生き方ができること。
自分の欲求を滞りなく満たせること。
自分がハッピーでいられること。
幸せとは、世間や他者が決めることではなく、自分が決めることです。
「世間並」とか「人並」とかは一切排除して、純粋に自分の気持ちだけで決める。
それだけが唯一、自分を幸せに導く羅針盤です。
今の時代は、「世間が」とか「他者が」ではなく、「自分は一体どうしたらハッピーになれるのか」を常に自問自答しながら生きる必要があります。
外の世界にあるものや人は、参考にはなっても自分の「正解」にはならない。
自分だけの「正解」は自分で見つけなくてはならない。
だからこそ、自分と向き合うことが重要です。
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