一切のエゴが無い状態だと、そこにはただ「愛」しかないんです。
言い換えれば、「愛」とはエゴが不在の状態。
たとえば、私は自分の猫たちに対しては、どんなにコンディションが悪いときでも無償の愛を注ぐことができます。
それは猫に愛を注ぐことが私の自然な状態だから。
動物にはエゴがないんです。
だから動物とは、いつでも無条件に繋がることができる。
だから私は動物が好きなんです。
エゴとは:
- 自己防衛
- 回避
- 策略
- 詭弁
- 怖れ・不安・心配
- 不信感
- 劣等感・恥
- 無力感
- 無関心
- 責め・批判
- ジャッジメント
- 不寛容
- ナルシシズム・サイコパシー
こういうモロモロのエネルギー。
エゴが不在で「愛」の状態だと、意識はワンネスです。
そこには「分離感」がない。
ただ意識を向けるだけで相手の存在を感じることができる。
不信も不安も怖れもない。
ただ繋がっている感覚があるだけ。
でも、一たびエゴが出現すると、とたんに「分離」を感じ始めます。
- 理解し合えない
- 分かり合えない
- 繋がりを感じられない
- 拒絶したいと思う
- 拒絶されていると感じる
- 対立する
こんな感じ。
念のために書いておくと、「愛」はすべてをわかり合って理解し合って共感し合う、ということではありません。
そうではなく、違う者同士だけれども、根底のところで繋がっている感覚。
喩えていうのであれば、あなたは「私」という人の肺で、私は「私」という人の腎臓、みたいな感じ。
伝わるでしょうか 笑
ワンネスの状態にあるときに、すべての存在は宇宙という大きな有機体の一部であり、私たちはすべて宇宙であり、宇宙は私という人を通して宇宙そのものを体現しているんだ、と。
それを感じながら居ることができる。
目次
分離感を生む痛み
私は普段の生活の中で、かなり深いレベルで自分と向き合うことを習慣にしています。
どんな些細な心の動きや気持ちも放置しない。
基本は、自分の中から湧き上がったものはすべて肯定的に受け止めること。
なぜなら、感情や気持ちはすべて「自分そのもの」だからです。
それを大切に扱うことは、「自分を大切に扱うこと」と同義。
例えば、「〇〇さんを拒絶したい」と感じたら、それをマルっとそのまま受け止めるわけです。
「そっか、私は〇〇さんを拒絶したいんだな」と。
その上で。
もしも私が〇〇さんが嫌いで、仲良くしたくないと思っているのなら話は簡単。
ただそれを実行すればいいだけ。
でも、〇〇さんのことは好きで本当は仲良くしたい。
にも関わらず、ときどき「拒絶したい」という気持ちが湧き上る時。
これは少し丁寧に見る必要がある案件です。
結論から言えば、私は〇〇さんの言動によって自分が傷ついたと思っているんです。
それが理由で「拒絶したい」と感じるわけ。
それは自然なこと。
だから、それも認める。
「そうか、傷ついたから拒絶したいんだな」と。
恐らく、まだ私の中に残っているインナーチャイルドの傷が刺激されているんです。
だから、この傷と痛みを適切にケアしない限り、〇〇さんに対する拒絶感はなくならない。
まずは自分自身をしっかりとケアすることが先決。
本音を認める
その上で。
本当は〇〇さんと仲良くしたい、という本音も認める。
「そっかー、仲良くしたいよね」と。
〇〇さんの言動は、本心ではないと知っている。
相手には相手の弱さや痛みがあって、自分を守るために無意識の防衛をしているだけ。
でも人間はどうしても、自分を癒せている分しか他者に愛を向けられない生き物だから。
自分を愛すること
エゴを無くせ、ということでエゴは無くせたりしません。
エゴは3次元世界を生きていく中で必要なものだから。
でも、自分を愛することで、他者や相手を愛することができる。
そのときに、相手と繋がることはまったく難しいことではありません。
むしろ、繋がっていることが自然な状態。
それが自分と相手の一番自然な在り方だと、本当の自分は知っています。
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