アセンションのプロセスにおいては、「執着を手放す」ことが必須課題で入ってきます。そのような文章を読んで、「ふむふむ、そらそうだわな」と「わかったつもり」になっていても、実際には何にも身に染みてわかっているわけではありません。
実際に、「手放そう」と思って手放せるほど、執着は簡単なものではありません。「手放そう」と思うこと自体がすでにエゴであるというアイロニーをはらんでいるからです。
そこで、アセンションにおいては、「実地体験」を通して執着を「焼き払う」という、いわゆるイニシエーションの数々を経験することとなります。
目次
イニシエーションとは
イニシエーションとは、何かの境地に到達するために通過しなくてはならない「通過儀礼」のことを指します。
アメリカのボストンに住む私の友人の一人は、数年前に自宅が全焼するという災難に見舞われました。今、同様のことがオーストラリア各地で起こっています。
一生かけて築き上げて来た家屋資産が、業火に飲み込まれて一瞬のうちに焼失していく様を目の当たりにしながらも、なす術もなく見守るしかない人々。震災や津波や台風被害も同様です。このような状況に際しては、以下のような感情が噴出してきます。
- 喪失感
- 無力感
- 絶望感
- 将来への不安と恐れと心配
- 孤独感
- 生存への危機感
普段の生活の中では抑圧されていて気づくことのなかったこうした感情を解放するために、そして、「執着」を焼き払うためにこのような出来事が起こります。
私たちは、自分が一体何に執着しているのか、それを失ってみるまで気づかないものです。「家なんてどうせ物だし」とうそぶいていた人でも、いざ森林火災で自宅が全焼ということになれば、実際にはどれほどの気持ちがそこにあったのか、否応なしに気づくこととなります。
これは、何に対しても言えることです。
- 大病をして初めて健康への執着を知る
- 離婚の段になって初めて相手への執着を知る
- 会社をリストラされて初めて安定への執着を知る
- 定年になって初めて社会的地位への執着を知る
- 貯金を失って初めてお金への執着を知る
- 家が焼失して初めて資産や安全への執着を知る
自分の中にある恐れや感情を強く刺激して、気づきを促す出来事はすべてイニシエーションなのです。
執着を焼き払う

アセンションのプロセスでは、あらゆる「喪失体験」を通して、私たちは「エゴの執着」を焼き払うことを促されます。「モノ」に対して固執しているとは限らず、すべての事柄がその対象となり得ます。
- 住む場所
- 人
- 社会的地位や社会的認知
- 名誉や賞賛
- ペット
- 仕事やキャリア
- 思い出や記憶
- 体験や経験
- 至福体験の瞬間
例えば、大学に勤めている知人の話によれば、大学という職場は、「教授になれるかどうか」といった名誉欲や地位欲が強く渦巻く世界だということでした。
また、いつか体験した一瞬の至福体験をもう一度味わいたいと、それを追い求めてスピリチュアル・ティーチャーを行脚している方もいらっしゃいました。
このように私たち人間は、無意識のうちにありとあらゆる対象に対して執着を抱き、それが私たちを3D意識世界へと閉じ込めるているのです。
アセンションのプロセスにおいては、壮絶な喪失体験を通過します。
- 病気になって健康を失う
- リストラされてキャリアと安定を失う
- 貯金を失う
- ペットや子供を失う
- 住む家を失う
- 好きな場所から引っ越す
- 思い出の品や写真が喪失する
- 離婚・別離を経験する
- 自分の会社が倒産する
こうした経験を通して意識が目覚め始め、抑圧されていた様々な感情が炙り出され、それらを昇華し尽くすことで執着や恐れから解放された自由な境地へと至るのです。
イニシエーションの先にあるもの

私は、今まで「合わない」と感じていつつも、それなりに社会の枠組みの中で生きて来ました。長年フルタイムで働いてきましたし、長く暮らした香港でアパートを借りるときに信用が問題になったことは一度もありませんでした。人並みに社会的信用もあり、安定もあったのです。
ですが、アセンションのプロセスへ入って以来定職につかず、自分で仕事を始めるにあたっては、社会的信用や認知に対する執着や未練を手放す必要がありました。また、「安定」「繋がり」「社会的に受け入れてもらいたい」など、ありとあらゆる執着と一つひとつ向き合って、焼き払ってきた道のりなのです。
その結果、今では清々しい自由を満喫しています。もう枠組みに縛られなくていい。しがらみや義理も要らない。社会に受け入れてもらえない、認めてもらえないという承認欲求と執着心に苦しむこともない。
3D意識の枠組みから脱却し、そういうものと関係ない、もっと広々とした、ゆったりとした人生を自由に生きていいんだという境地へ到達できたのです。
自由とは、身体的なことや身分のことを指すわけではなく、執着や拘りのない意識状態のことを指す言葉なのです。
欲が無くなるわけではない
古い時代では、欲を持たなくなることこそが悟りの境地といった誤解が広く信じられていました。ですが、欲を無くすことはできませんし、そうする必要もないのです。なぜなら、欲とは人間がこの地上で進化・拡大しながら生きていくためには必要なものだからです。
欲は無くすことが出来ない ただ、執着を手放すことが出来るだけ
私は今でも欲しいモノは沢山あります。欲しいモノがあれば買いますし、買ったら思う存分楽しみます。ただ、モノに固執する気持ちが圧倒的に減ったというだけなのです。
今あるありとあらゆるモノは、いずれ私の元を去ります。今ある経験もいずれ過去となります。そのことを実体験を通して身に染みて理解したので、それらを「握りしめる」ことがなくなっただけなのです。
- こうしたい
- あぁしたい
- あそこへ行きたい
- アレが見たい
- アレが欲しい
- コレが欲しい
そうした純粋な欲求に素直に従って生きて、手に入れたものを握りしめない。そういう軽やかな生き方へとシフトしてきたのです。
以前のように、何かを溜め込んだり、積み上げたり、失わないように守りの態勢に入ったりすることなく、もっと軽く自由に生きられるように変化してきました。
すべては一期一会
この境地へ到達できたことが、私にとってはアセンションのプロセスの賜物です。このステージで生きられるようになれたことが、私をどれほど解放してくれたのかは、とても一つの記事では語り尽くせません。

1973年長野県生まれ。20年以上に渡り海外5か国に暮し働きながら、心理学、宗教学、人智学、形而上学(メタフィジカル)などを学び実践してきた経験を持つ。現在は国内外のアセンションのプロセスにある人たちの覚醒の支援・サポートを行っている。
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