挨拶に限らず、他者から「何か」を強要されれば反発を感じるのが自然なことです。
私たち人間は基本「自由意志」を持った存在で、「自分が何をする・しない」に関して他者から口出しされたり強要されたりすれば、私たちの自由が侵害されるからです。
挨拶や感謝やその他のことは、他者に強要するものではありません。
したい人はすればよいし、したくない人はしなければよい。
ただそれだけのこと。
しかし日本では、職場などで「挨拶することを強要される」という現象がよく見られるようです。
「他者の価値観や在り方や生き方に関し口出ししてはならない」というシンプルな認識を持ち合わせていない人が多いことが原因です。
「挨拶は社会人としての基本」という価値観は、日本の中だけで通用している「ちっぽけな枠組み」に過ぎません。
日本以外の場所へ行ってそんなことを口にすれば冷笑が返ってくるだけです。
日本以外の場所では、「自分の思い通りに動かそうとしたり、変えようとしたりしてはならない」ことは通念として認識されていますが、日本にはそういうことを当たり前にする人がまだまだ沢山います。
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この記事では、20年以上に渡り日本以外5か国で暮らし働いた経験を持つ私が、これに関して「個人的な見解」を書いていきたいと思います。
挨拶にこだわる日本文化
日本では、伝統的に挨拶その他と「人間としての価値」が結び付けて考えられているようです。
「挨拶する」ことイコール「人として素晴らしい」、「すべてに感謝できる」ことイコール「人として素晴らしい」、「心を込めて家事ができる」ことイコール「人として素晴らしい」。
「社会的好ましさ」※のバイアスや承認欲求(社会に受け入れられたいという欲求)も手伝って、「挨拶すること」やその他のことで「自分の人間としての価値」を認めてもらいたいと求める傾向が社会全体に広まっていると、私は感じます。
それが日本の多くの人たちが「挨拶」やその他にここまでこだわる理由の一つであろうと思います。
それはそれで構いませんが、自分たちの価値観が「正しい」と思い込んで振舞っているところに大問題があるわけです。
※ 「社会的好ましさ」のバイアスとは「その社会」において「好ましい」とされる要素を体現しようと無意識のうちに振舞うこと。日本においては「協調性がある」など。
挨拶と「人としての価値」は関係ない
いわゆる「道徳的なこと」は、日本以外の国ではさほど問題になりません。
それらは人によって大きく異なるものだし、日本のように画一的に「〇〇することが正しい」「▽▽するべき」という教育や躾はなされていないからです。
私自身は、「挨拶は人としての基本です」などとしたり顔で言う人がいると面倒くさいと感じます。そういう人とは距離をとって関わらないようにしています。
挨拶の強要は企業の越権行為
「挨拶はしたい時にしたい人にしたいようにしたらよい」「挨拶したくないときはしなければよい」というのが、私の基本的な考えと価値観です。
日本の企業の中には「挨拶すること」をスローガンやマナーとして従業員に教育しているところもまだまだあるようです。
ですがそれは雇用主側の越権行為というものです。
雇用主や上司が従業員や部下の価値観に干渉しても構わないと思っているのは、日本特有の未熟な価値観と言わざるを得ません。
職場とは仕事をする場所であり、雇用主の価値観を従業員に押し付けていい場所ではありません。
そもそもそのようなことは、「雇用主から従業員へ指示できることではない」という意識が足りていないだけです。
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もしも「挨拶をしないと気持ち良くないから仕事に影響が出る」というのであれば、その人の内面に相当問題があります。
もしも「挨拶することは我が社の理念」というのであれば、誰にも見える場所にそれを掲げ、「毎日きちんと誰にでも挨拶することに賛同できる人だけ入社を志願してください」とするべきでしょう。
お互いがお互いの価値観を尊重して干渉し合わない。それが節度のある大人の距離感というものです。
強要する人の内面に問題がある
「他者に挨拶を強要する人」は自我が弱いんです。
単に「自分が挨拶されなかった」ことや「挨拶したけれど返してもらえなかった」ことを受け取れないだけ。エゴが出て来て痛みを感じなくても済むように防衛線を張ろうとする。
それが「他者に挨拶を強要する行為」となって現れる。
「挨拶は社会人としての基本」とぶち上げれば、これ以上自分の弱さや痛みを直視せずに済みます。
当たり前のことですが、その人の茶番に付き合って「誰にでも挨拶する」必要はまったくありません。
挨拶する・しないは自分で決めること
挨拶をするとかしないという基準は常に流動的なもので、「こういう時はする」とか「こういう時にはしない」と決まったルールがある訳ではないのです。
私自身は大方のケースでは挨拶をしていますが、「時と場合と状況によって」は挨拶をしないことがあります。
疲れていて他者に気を使うどころではないときは挨拶はしないし、挨拶をしたくないと思う相手にはしません。
「その時その時の自分」に「一番しっくりくること」を、「自分の気持ちに正直に」やるだけ。
先日エレベーターでたまたま乗り合わせた女性は、エレベーター内の全員に対して会釈をしていました。
最後に私と二人きりになり、エレベーターを降りる際、彼女が私に会釈をしてきました。
でも、私は返しませんでした。
それがそのときの私にとって自然なことだったからです。
たまたまエレベーターに乗り合わせた程度の縁で、イチイチ会釈や挨拶を交わすような人間関係の在り方は、私には重すぎるし煩わしいと感じられます。
同じように、単に「同じ建物の中で働いている」という理由で、建物の中ですれ違うすべての人に挨拶をしろと言われれば、「鬱陶しい」「煩わしい」ことこの上ないです。
無関係の人と無関係のままで在り続けたい。それは、私にはとても自然で正当な欲求であると感じられます。
成熟した社会へ向けて
価値観の違う者同士が互いを尊重し合いながら共存できる社会が本当の意味で成熟した社会です。
どちらか一方の価値観を「正しいもの」として他方に押し付けることは、未熟さの表れです。
今一度、個人の価値観を互いに尊重する意識を強く持っていきたいものです。
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