私は、日本という国(社会)は「失敗」という概念が際立って強く、自分や他者の「失敗」に対する意識が厳しすぎると感じています。
日本以外の国では「失敗」とすらみなされないことでも、日本では「失敗」とみなされたり、それに対する態度が異様なのです。
例えば、以前どこかのトンネル内で新幹線の避難訓練が行われた様子がニュースで流れました。
その時に、何かしらの不具合が検出されたのこと。
後に担当者がインタービューで、
「お恥ずかしい限りで、申し訳ない。今後二度とこのような失敗がないよう、改めて行きたい」
と語っていましたが、これは異常です。
そもそも避難訓練とは問題を炙り出したり、不具合を見つけたりすることを目的に行うもの。
それなのに、「訓練」ですらも「失敗」が許されないと考えるメンタリティは、相当病んでいます。
この記事では、ほとんどのことは「失敗」ではないこと、そして「失敗」はそこから「何か」を学ぶためにあることについて書いていきたいと思います。
「失敗」ではないもの
日本の人たちが「失敗」だと思い込んでいるものは、そもそも「失敗」ではないというものが多々あります。
例えば、志望の大学を受験したけれども不合格だったこととか、結婚して離婚することなどです。
「受験に失敗した」なんて表現をよく聞きますが、それは単にエゴが行っているレッテル貼りで、正しくは「志望校を受験したが不合格だった」です。
この事実を元に、再トライするか、それとも他の道へ進むかを決めるだけ。
エゴだけが、「うわぁぁぁぁぁ、失敗してしまったぁぁぁぁ」と大げさにリアクトして、不必要な自信喪失や劣等感を生み出しているだけなのです。
ヨーロッパや北米において、「離婚」を「失敗」と捉える人はまずいないでしょう。
200年前ならいざ知らず、少なくとも現代社会において「離婚」は一つの選択と変化に過ぎないと、ほとんどの人が認識しています。
ところが日本では、未だに「離婚=失敗」と考えている人たちが多いことを目の当たりにし、驚きを隠せません。
20歳の人にまで、「離婚って、良いイメージないですよねぇ」と言われて、腰が抜けるかと思いました。
今年48歳の私からしてみれば、20代なんて子供のいいところ。
そんな幼い日の自分が選んだこれまた未熟な相手と、それから80代で死ぬまで添い遂げろと言われれば、「私には無理だわ」と言わざるを得ません。
そもそも、20代、30代、40代と生きて来て、その時その時の私は、ほとんど別人と言っていいほどの成長と変化を重ねてきました。
それなのに、一緒に暮らす相手は変えられないのはおかしいでしょう。
離婚することは「失敗」でもなんでもなく、単にお互いの成長を受け入れて、前へ進む変化の一つの形態に過ぎません。
私たちは、「失敗」という概念(観念)そのものを根本から見直す必要があります。
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明らかな失敗
一方で、中には「それは明らかな失敗」という類の物事もあります。
例えば、不正だとわかっていながら保健所に虚偽の報告をしていたり、売り上げアップのために真実ではない表示を行ったりするようなことです。
失敗から学ぶのが成長
失敗は一重に、ただ一つの目的のために起こります。
その目的とは、「失敗から学び成長する」こと。
何よりも大切なことは、その経験から「何を学んだのか」ということです。
人生のある時点で莫大な借金を背負う人がいます。
「お金」の学びに取り組むためには必要な経験としてもたらされるものです。
そのような苦境を乗り越えることによって、この人はお金に関して多くのことを学ぶこととなります。
それこそがこの経験の目的そのものなのです。
私たち人間は、「失敗」を通してしか学ぶことができないという側面を持っています。
失敗が一つもない人生などはあり得ないし、また失敗がなければそこには成長も学びもないのです。
厳密に言えば人生に「失敗」というものは存在しておらず、すべてが「経験」なのです。
学ばなければ成長はない
私の経験では、何度同じ経験を繰り返しても一向に学ぼうとしないのが人間なのです。
その弱さが人間らしさとも言えます。
何度同じことを経験しても、自分の痛みと真正面から向き合う準備ができていないうちは逃げ続けます。
相手が悪い、子供が悪い、親が悪い、会社が悪い、社会が悪い、国が、政府が・・・。
常に自分以外の誰かや何かのせいにして、自分の人生の責任を自分で負おうとはしないのです。
よく書くことではありますが、男性は若いうちは皆利己的で自己本位で、相手の女性のことなど何も考えていない側面があります。
それを指摘してくれる人が現れたとしても、本人が身に染みてその点を直したいと思えない限り、直そうとは思わないのが人間なのです。
例えば結婚を考えていたほど大切に思った女性が、自分が自己本位なことが原因で自分から去ってしまったとか、喪失体験を経た後に、ようやく重い腰が上がるのが常なのです。
自らの失敗に向き合い、そこから真摯に何かを学ぶ姿勢を持てなければ、一生かかってもどれほども成長はできないのです。
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最初から完成された人などは一人も存在していません。
私たち人間は未完成で生まれて経験を積み、未完成のままこの世を去るのです。経験の中で失敗を通して成長し、経験から学んだエッセンスを携えて次の人生へと備えるのです。
失敗は人生の必須項目
失敗することはダメなことでもなんでもなく、人として成長するためには絶対に必要なことです。逆に、失敗を恐れて行動せず、何も学ばず成長せずに人生を終えることの方を恐れた方がよいでしょう。
人間の本質は進化と拡大にあります。
いつまでも同じ算数のドリルを繰り返しできないのは、人間に本能的に成長欲求が備わっているからです。失敗を恐れるあまり同じところへ留まり続けるような生き方には、ある種の閉塞感があります。そこにはもう成長の余地がないからです。
失敗は恥ずかしいことではありません。
大いに行動して大いに失敗し、それを糧として学びを得る。それが人間として人生を生きる王道であると、私は考えます。
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