自立した生き方とは

自立した生き方とは、簡単に言ってしまえば「すべてを自分で選択し、自分で決めて、その結果の責任を自分が負いながら生きていく」生き方のことです。

それが「ちゃんと生きる」ということ。

かつての私を含めた多くの人は、自分と向き合うことから逃げつつ流されるままに生きていて、そのことに対して自覚がありません。

何かを決める際にとことん自分と向き合って、この状況で「何を選択するか」自分の責任において決めている人はあまりいらっしゃらないように感じています。

そのため、生き方に一貫性がなく、誰かや何かを恨むということになりやすい自分で人生の選択の責任を負っていないとき、被害者・犠牲者意識から逃れられないのです。

つまり、自分の人生がうまくいかないことの責任を親やパートナーや子供や社会や政府に転嫁して、自分の人生の責任を負うことを放棄しているのです。

自分の責任をしっかりと全うして生きてさえいれば、誰かや何かを恨んだり、犠牲者になるということは基本的にありません。

何かを選択するときには、「自分でこれを選ぶのだ」という明晰な意識が必要であるということです。

喜んで何かを選ぶ

何かを選択するときには、それが自分の意志による決定であるとともに、ある程度は「喜んで」選べることでなくてはなりません。

もちろんたまにはそうでないときもあります。私のように、骨をうずめるつもりでいた移住先の香港の情勢が悪化して、希望に反して日本に帰国するということもある。

それでも、「今目の前にある選択肢の中で自分にとってベスト」と思われるものを「自分で選んだ」という認識が必要なのです。そうでない選択は、基本的にしてはならないのです。

機能不全家庭で育った多くの人たちの特徴の一つは、「義務感」で生きていることです。

健全な内面を持つ親にとっての子育ては「歓び」です。子供を育てるにあたっては多くのことを手放したり、または始めたりしなければなりませんが、それよりも子供を育てる歓びの方が勝っているので、「喜んで」自分が成長しようと思えるのです。子供を育てることは、自分が成長することと同義なのです。

一方、毒親は「義務感」で子育てをしています。自分が「喜んで選んで」子供を育てているわけではないので、恩着せがましくなることから逃れられません。「育ててやっているんだ」という心の声が子供に筒抜けに伝わっているのです。

義務感から嫌々育てられた子供は、内面に曰く言い難い「罪悪感」を植え付けられます。「自分の存在は親にとって負担なのだ」という根源的な絶望感が要因です。「自分がいるせいで親が苦しんでいる」。これは子供にとって絶望的な悲しみをもたらす現実です。

こうして育てられた子供は、いずれやってくる親の世話や介護をこれまた「義務感」から自分に課します。親との関係は生涯を通してギクシャクし続けて、とても心の底から「介護したい」とは思えません。けれど親と同じように「それが子供としての義務なのだ」と自分に言い聞かせ親の世話をしようとするのです。

毒親に育てられた人は妙な「完璧主義」と「頑張り癖」が染みついてしまっていて、大嫌いな親の介護も適当に手を抜くということができません。「親の介護は誰にも頼らず完璧にしてやる」などと自分で目標を決め、頑なにそれを実行していたりするのです。

世の中には、本当に愛し合っている親子も多く存在しています。親から受け入れられて愛情をたっぷり受けて育った人たちは、年老いて弱っていく親を放っておけません。「心を込めて世話をしたい」と、本物の愛情が湧き上がるのです。

彼らにとって親の世話や介護は「するべきもの」ではなくて、「喜んでしたいもの」です。この動機の波動の違いには歴然たるものがあります。

義務感から幸せは生まれない

歓びではなく義務感に従って生きている場合不本意な選択を強いられたと思っている場合にのみ、恨み言や誰かを責める言葉が出てきます。

義務感に従って生きている根底には、自分で選んでいないことと同時に常に依存の問題があります。自分で決めていない、誰かや何かに依存しながら生きている、だから人生に自由や歓びが少ないのです。

しかしそれは「そういう生き方(誰かに依存する生き方)をする」と決めた自分の責任なのです。

もしも本当に満足の行く幸せな人生を生きたいと思うのであれば、他者と自分をハッキリと切り分けて、「自分の責任において生きる」ことが必須です。

環境が激変してしまった香港では自分の生き方と向き合う人が激増し、その影響で離婚する人も増えています。夫婦で求めるものが違うという事実が表面化したからです。

妻は香港以外の新天地で新しい人生を始めたいと願っても、夫はこのまま香港に残りたいと願うかもしれない。二人の人間の求めるものが違っていれば共に歩むことは難しくなります。

しっかりと自分と向き合って別れる選択を自分の責任においてした場合、恨み言はありません。しかし、自分としっかりと向き合わず、どちらかが義務感に駆られて相手に合わせる形で妥協したりすれば、後になって後悔の念と恨み言が出てくるでしょう。

普段は取り繕っていても、何かを切っ掛けに喧嘩した際などについ本音が出てきてしまうのです。本心から一緒にいたいのではない、本当は我慢して相手に合わせているという真実は、いずれ相手に必ず伝わります。

なぜ別れられないかと言えば、一人になるのが怖いからです。多少のことは我慢してでも一緒にいようと、楽な方へと流されて生きているのです。

何事も自分で決めてその責任を負う習慣をつける

自立して生きられるようになるためには、何事も自分で決めてその結果の責任を自分が負う習慣をつけるしかありません。日々の生活の中で実践していくしかないのです。

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