自分らしく生きられている人は世界中でもそれほど多いとは思いませんが、特に日本人は「自分らしく生きる」ことに対して大きな罪悪感を持っている人が多いと感じています。
原因は、日本が特に規範意識の強い社会であることです。
規範意識とは、「人として〇〇することが正しいことである」という「べきべき」「ねばならない」意識のことです。
私の所へいらして「私は(僕は)どうしたら良いのでしょうか」「どうするべきでしょうか」と問う人が後を絶ちませんが、「あなたはどうしたいのですか?」と私が尋ねると「えっ!」と絶句してしまう人がほとんどです。
それほどまでに、「どう振舞うことが正しいことなのか」ばかりを気にしていて、「自分はどうしたいのか」について考えたことすらもないという人がほとんどなのです。
これは大変悲しいことであると私は感じています。
私の仕事は、彼らに自分を取り戻してもらい、もっとのびのび生き生きと「自分の気持ちに正直に」生きられるように成長するサポートを行うことです。
世間体と連帯責任

日本の人たちの規範意識が強い理由は以下の二つに集約されます:
- 全体主義に根差した連帯責任の意識
- 「世間体を気にする」文化
例えば、日本では自分以外の家族のメンバーが不祥事を起こした際に、不祥事を起こした者の代わりに自分が「世間に対して」謝罪するという文化があります。
未成年の子供がしでかしたことであるなら親がその責任を負うのは道理ですが、成人した子供の不祥事に年老いた親が出て来て謝罪したり、配偶者や親の不祥事にも自分が責任を負って謝罪するのは日本独特の文化です。
アメリカやその他の国では成人した子供や配偶者が不祥事を起こしても自分は平然としているのが普通ですし、ブラジルでは11歳の我が子が傷害事件を起こした際に親が裁判所へ呼ばれたとき、「子供が犯した罪なのになぜ親が裁かれなければならないの」と親が抗議したりします(それはそれで問題ですが)。
そもそも日本人にとって「家族」の繋がりとは大きなもので、常にこれを意識しながら生きています。
何が言いたいかというと、世界でも先進諸国では個人と個人の境界線が明確になっている故に「連帯責任」という意識が薄い。それから世間の目を気にすることがない。なので比較的個人が自由に生きやすい。
日本では、個人と個人の意識上の境界線が曖昧なために自分以外の人の責任を自分が負うことが日常的に行われ、かつ人々は「世間体が悪くなる」ことを恐れています。
境界線の概念については E-Book を参照してください:
日本にはびこる「なんちゃって協調性」
本来であれば自分の人生の責任は自分で背負い他者の人生の責任は負わないのが普通なのですが、日本では戦後人々に連帯責任を負わせて調和を保ってきた背景があるために、自分のことを最優先に考える人のことを非難する傾向が強いです。
他人から悪く思われたくない、嫌われたくない、社会から受け入れてもらいたいという承認欲求が強い人たちは、「わがまま」や「協調性がない」と思われることを極度に恐れています。
本当の意味での協調性とは互いの違いを認識した上で双方を尊重し合った関係を築くことですが、日本で叫ばれている「なんちゃって協調性」は、自分を抑えて相手や全体に合わせることを指します。
そのため、冒頭でも書いたように「自分がどうしたいか」ではなく「どうするべきなのか」
と自問自答してしまう人が続出してしまう。
翻訳するなれば「自分は本当はそうしたくないんだけど、そうしないと「わがまま」だと思われてしまうので困っています。私は(僕は)どう振舞うのが「世間的に正しいこと」なのでしょうか」ということなわけです。
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嫌われる勇気を持つしかない

自分らしく生きたいのであれば答えは一つ、「嫌われてもいいから自分のしたいようにする」しかありません。
自分の責任がどこからどこまでか、相手の責任がどこからどこまでかをキッチリと精査して、自分の責任はしっかりと全うして相手の責任は相手に返す。それが基本です。その上で、自分がやりたいように生きたらいい。
ただそれだけなのです。
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