20年ぶりに日本へ帰って来て生活するようになって、よく聞くなぁと思ったフレーズが「周りに迷惑をかけないために」です。
私から見ると、大多数の日本人が「周りに迷惑をかけること」を極度に恐れて生きているように映ります。
さらに言えば、「周りに迷惑をかけないこと」が生き方の目標になってしまっている人までいる。
これは本末転倒な生き方だと私は考えます。
なぜこれほどまでに日本の人々が「周りに迷惑をかけること」を極度に恐れるに至ったかというと、いくつか要因があるように思えます。
- 日本は伝統的に連帯責任の強い文化であること
- それ故人生が破滅した人も多くいること
- 村社会の名残(迷惑をかけると村八分にされる)
- 世間体を気にする
- 承認欲求が強い
「周りに迷惑をかけるな」は、日本人が集合的に刷り込まれている規範意識の一つです。
しかも「迷惑」の意味が取り違えられている。
この記事では、「周りに迷惑をかけてはいけない」という承認欲求について少し深堀りして書いてみたいと思います。
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目次
「迷惑行為」とは
「迷惑行為」とは、利己的で自分都合で他者の境界線を侵害する行為のことを指します。
- 真夜中に大声で歌を歌いながら路地を歩く
- 他人のものを無断で借りたり使ったりする
- 借金をしておいて返済しない
- 強引な勧誘やセールス行為
- 自分の責任を負わず他者のせいにする(責任転嫁)
- こちらの都合も考えずに依存してくる
- など
こうしたことをされると「迷惑だなぁ」と思いますし、本気でやめて欲しいと思います。
日本人が「迷惑だと思い込んでいる」こと
ですが、日本人が「迷惑だと思い込んでいる」ことは、本物の迷惑ではないことが多々あります。
- 有給休暇や体調不良その他で仕事を休むこと
- 何らかの事情があって他者へ頼ること
- 生活保護や失業保険を申請すること
- 自分の力が足りなくてチームに参加できないこと
- 病気や事故に遭って看病やその他が必要になること
- 自分の都合で仕事や会社を辞めること
- など
上に挙げた事柄は例にすぎませんが、私個人は「迷惑」とはまったく思わないことです。
世間体と連帯責任
日本の人たちのメンタリティをひも解くためには、以下の要素を理解することが必要不可欠です。
- 全体主義に根差した連帯責任の意識
- 世間の存在
例えば、日本では自分以外の家族のメンバーが不祥事を起こした際に、不祥事を起こした者の代わりに自分が「世間に対して」謝罪するという文化があります。
未成年の子供がしでかしたことであるなら親がその責任を負うのは道理です。
しかし、成人した子供の不祥事に年老いた親が出て来て謝罪したり、配偶者や親の不祥事にも自分が責任を負って謝罪するのは日本独特の文化です。
アメリカやその他の国では成人した子供や配偶者が不祥事を起こしても自分は平然としているのが普通です。
ブラジルに至っては、11歳の我が子が傷害事件を起こした際に親が裁判所へ呼ばれたとき、「子供が犯した罪なのになぜ親が裁かれなければならないの」と親が抗議したりします(それはそれで問題ですが)。
何が言いたいかというと、世界的には稀な「連帯感」が日本には存在していて、それが「迷惑をかける」ことを極度に恐れるメンタリティの要因の一つとなっているということです。
日本以外の国では世間の目を気にすることがない。
なので個人が自由に生きやすい。
日本の文化の中に「個人の自由」を尊重する文化はなく、一人が抜ければ「全体へ迷惑がかかる」という刷り込みが伝統的に行われてきました。
ですが「全体へ迷惑がかかる」というのは、真実ではありません。
単に「捉え方」の一つに過ぎません。
香港で働いていた頃に上司が1か月の休暇を取って旅行へ出かけたので、少し不便だなと感じたことはありました。
けれど「迷惑だから止めてもらいたい」と思ったことはありませでした。
自分も休暇は取るのだし、そういうときにお互いの仕事をカバーし合ったり少しの不便を耐えることは、自然で当たり前のことだと思っているからです。
こういう姿勢でいるからこそ、お互いに素直に「ありがたい」と思い合える。
私が思うに、日本には底意地が悪い人たちが多いですよね。
他の人が休暇を取ることを良く思わないどころか、足まで引っ張ろうとする人がいることには内心辟易します。
昔はあった相互援助の精神
近年核家族が常態化した影響で、失わてしまった「相互援助の精神」があると思います。
私の祖父母は4人とも、寝たきりになったり入院したりした末に、家族に看取られながら亡くなりました。
身体が効かなくなって動けなくなった彼らを介護したり、身の回りの世話をしたりがありました。
また、入院費などを本人の死後に親族が清算したりしていました。
しかし、私たちはそういう手間のことを「迷惑」などとは思ったことがありませんでした。
それが人として自然な姿であると、本能的に理解していたからです。
生れたばかりの乳幼児が「自分は迷惑をかけている」などと思わないのと同じこと。
人が生き死ぬには、周りとの助け合いや支え合いが必要であることをごく自然なこととして心得ていたわけです。
もちろん、相手のことを嫌いなら、こうしたことはやりたくないと思うでしょう。
それは人間関係の問題です。
誰しも嫌いな人のお世話などはしたくありません。
関係がうまく行っているときにお互い助け合ったり協力し合ったりすることは、人間として自然なことです。
同じように、人生が進むにつれて様々な変化が表れて仕事や会社を辞めたいと思う事は自然な現象です。
そのときどきで自分の人生を優先させて今までの環境を離れることは、決して「わがまま」などではありません。
そんなことを言ってしまっては、何かを辞められる人など一人もいないということになってしまうでしょう。
思い違いが招いた不寛容さ
いつから日本人は、そんな人間として自然ことまで「迷惑である」と捉えるようになったのか、私にはよくわかりません。
「寝たきりになって家族に迷惑をかけないように・・・」なんてフレーズを本当によく聞きます。
日本のように、本当に必要な時に他者に頼ったり弱さを見せたりすることを「迷惑」と言うような不寛容さでは、社会的動物である人間は生き延びることがもともとできません。
昨今貧困や飢えが原因でひっそりと孤独死する人たちが急増している背景にも、「他者に迷惑をかけてはならない」という刷り込みと思い込みが要因の一つにあると、私は考えています。
誤解を正して認識を新たにする
今の時代、言葉の定義をしっかりすることは本当に大切です。
何が迷惑で何はそうでないのか、他者に依存することと頼ることの違いは何か、そうしたことを明らかにする必要がある。
その上で共依存に根差した承認欲求を乗り越え、必要なときに互いに支え合える相互依存の社会を実現することが急務であると考えています。
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