日本の人たちの様子を観察するにつけ強く感じることは、「日本人は他人に関心がありすぎる」ということです。さらに言えば、「他人のことに口を挟んだり干渉したりする人が多い」。
他人のことを「他人のこと」として放っておけず、自分がアレコレ考えてしまう、口出ししてしまうのなら、それは自分の中に心理的問題があるという明らかなサインです。
他者のことは我関せずが健全な在り方

ずっと以前に香港の友人からこんなことを言われました。
「この前東京へ遊びに行ったとき、地下鉄の中で電話で話している人がいた。そうしたら、近くにいたおばあさんが、その人に向かって「ちょっとアンタ、やめなさいよ」って注意したの。このおばあさんは、とんでもない無礼者ね!」
これを聞いたときに、「すごく香港人らしいな」と思ったのです。
香港の人たちは基本的に他者には無関心です。他人がどこで何をしていようと、「自分とは関係ない」という姿勢を崩さない。誰かが明らかな「ルール違反」をしていたとしても、そのことと自分はまるで関係ないというスタンスです。
というか、事実そうですよね。赤の他人がルール違反していようが何だろうが、それと自分は関係ない。
もしも他者の行為が自分に迷惑や被害を及ぼしている場合は、警察や係員を呼んで対処してもらえばいい。
けれども自分が相手に直接注意したり窘(たしな)めたりする行為は「越権行為」として慎むものと心得ている人が香港には多いです。
香港人だけでなく、アメリカでもヨーロッパでも、他者のことに干渉しないという姿勢は成熟した社会であれば自然とそこにありました。
境界線が引けない日本人

一方日本人は、他人の在り方や振る舞い方が気になって仕方がない人が多いです。
私は日本に帰って来て以来、「日本は監視社会」だと感じるようになりましたが、いわゆる「世間の目」というものの存在が大きく、常に誰かから監視の視線を向けられているように感じることがあったのです。
ルール違反している人を見ると怒りが湧き上がってくるという人がいる。「あんなこと、するべきじゃないのに!」と憤る。そして我慢できずに自分が相手に注意してしまう。
これは自分と他者の間にしっかりとした境界線が引けていないことを表しています。いみじくも香港人の友人が私に言ったように、「無礼」なんです。
例えば、赤の他人がその人の家の庭でどんな花や木を植えていたところで、自分にはまったく関係がない話でしょう。だって他人が他人の庭でしていることなのだから。
もしも隣の庭に生えている木の枝がこちらに向かってきて危ないというのなら、交渉して何とかしてもらえばいい。でもそうでない限り、他人が自分の庭でしていることに強い興味や関心を示すというのであれば、それはその人の内面に深刻な心理的問題があることのサインです。
日本人は規範意識が極度に強いので、とかく自分や他者を「べきべき」「ねばならない」で縛って自分の思い通りに操ろうとしてしまう。その行為自体が問題なのだと気づけない人も多い。
様々な発達段階の人たちがいるという事実

私もある時、香港の地下鉄内で隣に座った白人女性が膝の上にハンバーガーの包みを広げて食べ始めたので、辟易した経験があります。臭うし不衛生だし。「地下鉄の中は飲食禁止なんだけどなぁ」と思ったものです。
けれども彼女に「ここは飲食禁止なんですよ」と教えてあげるのは私の仕事じゃない。だから、私はそっと席を立って女性から離れることで自分を守りました。
自分を守るということであるならば、それで十分なんです。わざわざ相手の境界線を侵害する必要はない。
この社会には、様々な発達段階の人たちが混然一体となって暮らしています。モラルが高い人もいれば低い人もいる。まだルールや規則を必要とする人たちもいる。
色んな人たちが寄り集まって生きているという事実を受け入れられるかどうかも、自分の内面の成熟度によるわけです。
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