近年「共感」や「寄り添い」の大切さが言われるようになって、「共感しよう!」「相手に寄り添おう!」みたいなスローガンをあちこちで聞くようになりました。
例によって私は辟易しているのですが、私は、自分の痛みに真摯に向き合った経験がある人ほど、軽々しく「共感」という言葉を口にしないと思っています。
インドで出会った女性に感じたこと

2018年の3月から4月にかけて、私はインドの南部にあるアユールヴェーダの施設に一か月滞在して本格的なデトックス治療を受けていました。
その時に一緒だったフランス人女性3人の中に、重度の病気を持った人がいました。病気のせいで身体のコントロールが効かず、普段は薬を服用しないと日常生活が送れないということでした。
45歳の時に発病し、それ以来人生が激変してしまったそうです。それまで暮らしていたパリから田舎へ引っ越し、生き方そのものを大幅に変えたと話していました。
彼女は時々、「病気になった人の気持ちは、誰にもわからない」とこぼすことがありました。その時の彼女の目には、恨みと怒りのエネルギーが溢れかえっていました。
私にも似たような経験はあります。自分の健康状態が優れないときに、周囲の人たちは一向にその苦しみをわかろうとはせず、切ない思いをしたものでした。
ですが今の私はその時とは少し違った感じ方を持っているのです。
ありのままの事実を受け入れる

今の私は、人間は「所詮他者の痛みなどはわかりようがない」という歴然たる事実を、ある程度ありのままに受け入れています。
私たちは誰しも、自分の苦しみを乗り越えるので精いっぱいだからです。
人生で打撃を受けているのは自分一人ではない、それぞれが自分の魂の傷と向き合っているという歴然たる事実。
その事実を見据えもせず、軽々しく「あなたの痛みや気持ちがわかる」などと言って欲しくはないし、口にするのはおこがましいとすら感じます。
私にはあなたの痛みや苦しみはわからないし、あなたには私の痛みや苦しみはわからない。それは当たり前のことではないだろうか?
私はそう思っているのです。
インドで一緒だった重病のフランス人女性に、過去数年の間に私に起こった出来事を少し話したら、彼女はもう何も言いませんでした。自分の病気の愚痴すらこぼさなくなったのです。
人にはそれぞれ痛みと苦しみがある。
それは他者がうかがい知ることができないある種神聖な領域で、私たち一人ひとりが孤独の中で向き合っていくものであると私は考えています。
他者の痛みに対して無関心であったり配慮しなくてもよいと言っているわけではないのです。
そうではなく、人は誰しも自分の痛みに責任を負い、それに取り組み、他者の痛みに対しても尊厳と尊重の念を持って接するという意味です。このことの意味を本当に理解していれば、おいそれと「共感」の言葉などは口にできなくなります。
私は、本当はわかりもしないのにわかったようなフリをして寄り添われるのが嫌いです。「わかりもしない癖に」と言いたくなる。
ドライすぎるとか冷たいとか感じる人もいらっしゃるかもしれませんが、他者の痛みも自分の痛みも厳かに扱う、それが私なりに自分と他者を最大限に尊重することなのです。
表面的なスローガンにするようなことではない
日本の巷では「共感しよう!」「寄り添おう!」とまるでスローガンのように叫ばれていますが、本当の意味での共感や寄り添いはそんな表面的で薄っぺらいものではありません。
本当の意味で他者に共感したり寄り添ったりできる人間はほとんどいないし、またそうするべきでもありません。
できる人がいるとしたら、それを自分ができる形で全体に還元すれば良いのであって、間違っても「そうしなければ」という想いでするものではないです。
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