私たち人間は、基本的に「他者と親密な関係を築く」ことを通してしか成長することができません。
「他者との親密な関係」とは、主に恋愛関係や結婚を主体とするパートナーシップのことです。
誰かと真剣に関係を築こうとすれば、否応なしに自分の中で未解決になっている問題が浮上してきます。
誰一人としてそれから逃れられる人はいません。
そのときに自分自身と向き合って自分の課題に取り組める人は成長していく。
相手を責めたり批判したり相手を変えようとするだけの人は同じ問題を何度でも繰り返す。
それだけです。
誰かを「好きになる」ことと「愛する」ことは根本的に次元が違う問題です。
誰かを「好きになる」とは3次元のエネルギーで、言ってみれば誰にでもできること。
「好き」という気持ちは大変利己的で、基本的に「自分のことしか考えなくて済む」エネルギーです。
一方、誰かを「愛する」ことは5次元以上のエネルギーで、誰にでもできることではありません。
誰かや何かを「愛する」とは、内面が成熟した自立している人にしかできないことです。
目次
「好きになる」とは
誰かを好きになると、私たちは相手と一緒に居たいと願ったり、相手が自分だけのものであって欲しいと願ったりします。
よく使われる喩えは、「道に咲いている花」が「好き」なら、人はその花を摘んで帰って自分の家に飾りたいと思う。
一方、「道に咲いている花」を「愛している」人なら、その花が安全に咲けるよう見守りたいと思う。
誰かを好きになることはさほど難しいことではなく、出会い頭に恋に落ちて割と簡単にできるものであったりします。
「好き」という気持ちは利己的で、相手を自分のために利用したいという気持ちと一体です。
本当の相手の姿を見ていないばかりか、自分の理想像や幻想を投影しているだけなことがほとんどです。
そのため、少し時間が経つと幻想が破れて等身大の相手の姿に「幻滅」したりします。
「幻滅」とは幻(まぼろし)が滅びると書きます。
誰かを愛すること
誰かを愛するためには、まずは自分自身が相手に依存したり執着したりせずに自立できていることが必要です。
自分の痛みや傷を自分の責任において背負えるだけの強さも必要になります。
誰かを愛するとは:
- 相手の欠点や弱点を含めたすべてをやさしく包み込むように受け止められること
- 相手の成長を促し、見守れること
- 相手のありのままを深く理解すること
- 相手と適切な距離を保てること
- 相手を自由にしておけること
- 相手の意志を尊重できること
- 相手の人生の選択を阻害しないこと
- 相手が必要としてる理解やサポートを与えられること
などをすべてを指します。
これらのことは相手を「好きになって」相手から何かを求めることとは根本的に質を異にする事柄。
その本質は受容と与えることです。
愛は犠牲を必要としない
ここで一つ断っておかなくてはならないことがあります。
それは、愛は犠牲を必要としないということ。
自分の健やかさや利益を犠牲にして誰かに尽くしたり、また相手にそれを強要することは愛ではあり得ません。
単なる共依存です。
本当の意味で誰かを愛しているとき、相手の未熟さや問題に対して理解を持ちつつも、自分が傷つかない位置まで距離を取り、相手と関わらない選択を取れるものです。
一見突き放しているように見えるかもしれませんが、そうではないのです。
相手と自分の権利と意志を尊重していればこそ、できることです。
むしろ、そうした健全な選択を取ることをできず、ズルズルと共依存的な関係に落ち込んでしまうのは、内面が未熟でインナーチャイルドが癒えていない人たちの特徴です。
まずは自分を愛すること
誰かを本当の意味で愛することができるようになるためには、まずは自分自身を愛せていることが大前提です。
自分を愛することを知らずして他の誰をも愛することはできないからです。
自分を愛するとは:
- 自分の欠点や弱点を含めたすべてをやさしく包み込むように受け止められること
- 自分が成長できるよう努め、見守れること
- 自分のありのままを深く理解すること
- 自分の自由を追求すること
- 自分の意志を持ちそれを大切にすること
- 自分の人生の選択を他者に阻害させないこと
- 自分が必要としてる理解やサポートを求められること
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